他人にとっての私の価値は生死を問わない。
例えば、集団の中にいるとして、その中で明らかにランク付けられていて、
その他大勢としての価値、賑やかしとしての価値、支払をする者としての価値、上位が存在する為の下位としての価値しか与えられなかったとして。
これに対して
「それはあなたが自分の価値を高めようと努力しないから。そう思われたくないのなら認められるための努力をしなさい」「他人にどれだけ尽くしてますか!?他人の為にどれだけ人生捧げてますか!?他人の為に尽くしてもいないで評価されたいなんて偉そうに!!」とまくし立てる人が少なからず存在する。
そういう人たちにとって人間の価値とは「努力」と、それが齎す「結果」だけなのだ。
努力するだけでも駄目で、努力しないで得た結果でも駄目。あくまでも両方が揃っていないと価値がないのだと責める。
それはまるであたかもまっとう正しい様に聞こえる。
いや、私自身、全くもってその通りだと思っている。
だから私が大切にされないのは当然なのだと。
だから私は
『人間には生きているだけで価値がある』
なんて言うような人は、本当に恵まれた環境で愛されて育ったんだなと思う。
本当は
『人間の中には、生きているだけで愛される人も存在する』
が現実であって、生きているだけで価値を見出されている人の中に、少なくとも私は含まれていない。
私を大切にしない人たちの言う「すべての人の価値」って何なんだよ、って思う。
炭素やリンやカルシウムなどの、物質的な意味での価値なら、生きていようが死んでいようが変わりはない。
だから他人にとっての私の価値は、生きていても死んでいても何ら変化はないのだ。
それなのに、それを言うとなぜか怒る人たちも一定数存在していて。
今度は
「自分の価値を他人に委ねるな。自分の価値は自分で決めろ」
などと喚きだす。
あのな。
例えば自分の描いた絵を、自分の価値観では100万円の価値があると思うとしよう。
思うのは自由だ。それは自分の価値観だから。
でも、それを売る場合、金を払うのは他人だ。
自分がどれだけ100万の価値があると言っても、世間が千円の価値しかないと判断したらその絵の価値は千円なのだ。
そしてずっと千円だと言われ続けていたらどうなる?
正常な判断力を持っているなら、絵の価値が千円しかない事に気づく。
死ぬまで100万円だと言い続けるのなら、世間的には奇人変人だと揶揄され非難されるだろう。私は別に、他人と争いたいわけじゃないんだ。
私は私自身で自分の値段を下げたんじゃない。
世界が私の順位を低くランク付けしているのだ。
そしてそれは相対的で正しい。
私が生きるに値するかどうかは、世間が決めることだ。
自分の価値観だけで生きられるのは他人に愛されている人だけ。
つまり最初から評価されている人だけなんだよ。