映画「未知との遭遇」感想
私にとって映画やドラマといったフィクションの類は、精神的体力がある時にしか見れないようです。演者や演出に感情が大きく揺さぶられてしまうので、、
しかしそこはさすがのスピルバーグ作品。
体力のない私をも一気に引きずり込む力のある映画がこの「未知との遭遇」
息をもつかせぬ目まぐるしい展開、個性的な登場人物たち、1977年の作品なのにCGというか特撮といったシーンも美麗で圧巻の出来。
何度も観ている作品なのですが、それでも引き込まれてしまいます。
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ところで、未知との遭遇ってジャンルSFなんですかね。
今回はWOWWOWで放送されていたファイナルカット版を観たのですが、作品の説明文が「異星人とのファーストコンタクトを描く感動作」となっていて、それだけ読むとハートフルでウォーミングな感覚を受けますね。E.T的な感じかな?とも。
ただ、個人的な感想を述べるなら、「未知との遭遇」はどう考えてもホラー!と思っています。だってXファイル的視点で見ると絶対頭にチップ植えられてるでしょ主人公たち…。
それに子供を攫われたり家族に理解されず大暴れするなど、他者から見たら精神崩壊してるオカシナ人になってしまっている主人公たちの置かれている環境の描写もまじで恐ろしい…。
というかスピルバーグ監督作品って、別にホラージャンルに該当しない作品も大体怖い印象を受けます。自分だけでしょうか…?一般的には今作を「ハッピーで感動的で明るいSF作品」と捉えるのが普通なんですかね、うーん…。
感情を揺さぶる(怖がらせるも含む)という意味での「感動」であるなら、確かにこれは感動作かなぁ……いやもっと他に言い方無かったのかWOWWOWさん……
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見返りを求めない愛は奴隷か邪魔でしかない。
愛の奴隷
私は過去の経験から、恋愛関係においての「見返りを求めない愛」は欺瞞でしかないと考えています。
恋愛や人間関係においての「見返り」とは:感謝や同等の愛情、優しさや思いやりのある対応
つまり本当に見返りを求めないのであれば、いくらどれだけ相手に愛情を注いでも相手から感謝されることは一切ないという現実を受け入れるということ。
それが何を意味するのか?
その一方的な需給の関係は、DVの加害者と被害者という立ち位置を生むだけ。
愛情をもって永遠に尽くす者と、それを受け取るのは当たり前の権利であって対価を支払う謂れのない者。
世間では、それが正しい愛の形だと謳う。
私はそれが不思議でならない。
邪魔でしかない愛
もう一つの選択:邪魔
愛情っていうのは、お互いが同じ価値観を共有している時にのみ効果を発揮するのであって、相手が望んでいないことを押し付けるのは最高の害悪でしかない。
相手が望んでもいないのに「善意」だの「愛情」だのという断りづらい感情を盾に押し付けてくる愛情は確かに愛されようとする態度ではないため「愛されたい」という要求は無いように思える。
しかしそれは確実に狂気の沙汰だ。
お節介なママ友、善意のストーカー、正義のテロリスト
全ての発端は一方的に芽生えた愛情からきている。
それでも「私は愛情に見返りを求めない」と言いたいか?
見返りを求めない愛情が必要な場所
実は、見返りを求めない愛が必要とされる場所がある。
それは博愛が必要とされる場所。
一概には言えないけれどNPOやNGO、国境なき医師団のような現場。
そこでは見返りを求めない愛情が確かに必要とされる。
ただ、そこで必要とされる愛は、個人の形をもってはいない。
つまり誰でも良いのだ、愛情を注いでくれるのであれば。
そういう場所でのみ、見返りを求めない愛情というのは正しく機能する。
そうでないなら正しく見返りを求めた方が健全だ。
捧げつくすだけの愛情は、やがて命をも駆逐する。
勿論愛情深き者はそれが望みですらあるのかもしれないが、それはまた別の意味での害悪にもなりうることも留意しなければならない。