一人では生きられないが他人とはかかわりたくない。
私は電気のない世界では生きられない。
私は物流や電力やきれいな水を安定的に供給してくれている見ず知らずの誰かのおかげで生きられている。
そういう意味で私は一人では生きられない。
けれども、そういう意味以外では、私は極力他人とかかわりたくない。
私の存在意義は「虐げられること」にあるらしい。
いじめや中傷や嘲笑の的になるのはいつだって派閥に属していない者。
他人とつるまない私はいつだって憂さ晴らしの格好の的であった。
つまり、私が他人とかかわりながら生きていくには、今まで通り他人とつるまず、つまりマウントを取られ、誹謗中傷され、嘲りや嘲笑を笑顔で受け止めストレスで呼吸困難になる今まで通りの生き方か、自分を押し殺し無理に笑顔で過ごし当たり障りのない会話で自分の時間を消費し他人とつるみながら生きるかのどちらかなのだ。
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よく人間関係のストレスについて、
「他人の態度が嫌なら自分が変わればいい」
「受け取り方の問題」
などとドヤ顔で言う人がいる。
つまりこういうことを言う人は、「ありのままの私で生きることはそもそも許されない」と言っているのだ。
だから私は死のうとするのだ。
生きていても自分では生きていないのだから。
私が「生きづらい」と感じるのは、生きることはつまり自分自身を変えるか極端に忍耐しながら生きなければならないか、または他人を説得しなければならないからだ。
私はマイペースでいられない空間がとても苦手だが、それと同じくらい、「他人を説得する」のが嫌い。
私がこうやって生きることを誰かに否定されるのはとても嫌なのだが、同時に、私を否定する人の意見を変えるように説得するのも嫌いなのだ。何かを否定するというのはその人のアイデンティティだと思うから、できれば尊重したい。
けれども私に生き方を変えるように強要されるのは嫌だから、できれば他人とはかかわりたくない。お互いがあまり接点のない位置でやるべきことだけをやって生きることはできないのだろうか。