小さな幸せを感じる日々の日記

人生辛かったり楽しかったり悩んだり寝たり起きたり。

「人生に意味はあるのか」という疑問の答えの在処

最大の効率は生まれてすぐ死ぬ事である。

 

大きな事を成し遂げれば良い人生だったと言えるのか?

否だというなら、何を以って良い人生だったと見なすか。

 

他人の評価を一切考慮しなくて良いのなら、自分が良い人生だったと思うただそれだけで良い人生だったのではないだろうか。

 

自分にとって良い人生とは?

私の望みは老いる前に死ぬ事。働けなくなったら死ぬ事。自分の力や稼ぎや年金だけで生きられなくなったら死ぬ事。

 

それまでの過程についてはとやかく言わない。

私は常時常にいつだって文字通り死に物狂いで生きてきた。

他人と比較さえしなければ、私はいつも命を削って生きていたのだ。

 

だから選択が間違っていたかもしれなくても、もっと「良い人生」があったかもしれなくっても、そんなものはどうだっていいのだ。

私は今「生きている」のだから。

 

他人の人生にとやかく言うな。

自分の人生に口出しする他人の言葉も気にするな。

 

私はいつも他人にどうジャッジされるかそればかりを気にして生きているが、それは極めて能動的なものであって、受動的なものでは決してない。

だから私の人生に色々口出ししてくる奴らには余計なお世話だと思っている。

 

私の人生の責任を誰が取ってくれる?

あれこれ文句言って来る奴らのうちの何人が、いつかどこかの知らない場所で死んでいた私の事を探し出して泣きながら悔やんでくれる?

 

私の人生は私が責任を取るのだ。

アドバイスと称して口出ししてくる輩には責任を負う権利も義務も一切ないのだから。

 

私の人生をどう生きれば無駄でなかったのか、それは視点によって異なる。

自分視点なら「自分が納得したら」

他人視点なら「社会貢献して他者の為に死んだら」

 

そしてもう一つ、私がいつも心に留めていることがある。

それは、宇宙にとって私という存在は何なのか、という事。

私の個人的な考えで言うと、宇宙視点で言うなら私の人生なんて

 

「生きてても死んでも一緒」

 

なのだ。だって私はただの物質の寄せ集めだもの。

所謂「死」によってその寄せ集め達は互いの手を放し、またそれぞれ別々の場所で必要とされながら存在していく。

 

だから、生きていても死んでいても同じ事なのだ。

 

そんな私の人生に意味などあるわけがない。

 

「意味のある人生」の「意味」とは「自分が納得できる」という意味でありそして人生とは言うまでもなく「自分の人生」の事なのだ。

そこに意味を見出すかどうかでさえ、自分で決めるよりほかない。

 

人生に意味があるのかどうか、それは自らの心の内にしか答えは存在しない。

そしてそれをジャッジするのも意味として採用するのも、自分一人の采配でしかないのだ。