小さな幸せを感じる日々の日記

人生辛かったり楽しかったり悩んだり寝たり起きたり。

好き嫌いが最優先

私は全ての人が考えていることが全て等しくその通りだと思っている。

それはその人がその様に考えているからそうなのであって、そこに対してジャッジする権利は私には無いと思っているからだ。

 

ただ、ある意見を聞いて「自分ならこう思う」「自分はこうしたい」という意見を持つことはある。ただしそれは「他人の意見を聞いた後に発生した自分の意見」であって、他人に対して「だからお前は間違っている」と言いたいわけではないのだ。

 

そうなると、行動する際に他人の指標を当てに出来ないという欠点が生まれる。

 

なにせ、他人の言う事は全て「間違いじゃない」のだから。

 

 

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だからこそ私は、何かを決める時自分の感情を最優先する。

 

好きか、嫌いか。

 

誰かの言う事が正しいかなんて私にはジャッジできない。

誰かが悪いなんて私にはわからない。

 

だから私は自分が好ましいと感じるかどうかでしか判断しない。

 

ただ、それは一般的に見ると

 

傲慢

自分勝手

我儘

独りよがり

独善的

頑固

狭量

客観性がない

 

などと言われ、よろしくないものとして扱われ、訂正を求められることが多い。

 

私にはわからない。

「この方が合理的」

「客観的に見たらこっちの方が正しい」

とかっていうじゃん。

 

「合理的な事が好きだから合理的なやり方を選ぶ。」

「正しい方が好きだから自分が正しいと判断した方を選ぶ。」

 

ならわかるんだけど、合理的な事は嫌いだけど合理的な事を選ぶ人とかいるの?

それは何の為に?

自分の人生の将来の為?

 

それなら、将来の自分の人生は好きで溢れてないの??

嫌いな事やり続けて将来自分の好きが溢れる人生になるの?

なるなら、合理的な事は好きにつながるよね?

好きな事のためなら嫌な事もやろうっていうのは、好きに関係してないの?

 

客観的に見て正しいってなに?

自分が判断する際に自分の主観を一切挟まない判断って存在するの?

どこまでも客観性を主張する人って、何かあった時に他人のせいにするイメージがある。自分の判断じゃないよって言いたいだけなんじゃないの?

 

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他人が言いたい事は他人がその人の信念に沿って主張している事なので別に何を言ってもいいと思うし、それに対して誰かが何か別の発想をするのも勿論構わないと思う。

 

最初から完全な悪や間違いを望んで自己主張する人は少ないと思うからこそ一旦はその主張を尊重したいと思うし、色々な思考があるのが人間の個性なんだと思ってるから。

 

けれども、最終的に決定するのは自分の意思でしかなくて、その判断基準は私が好むか好まざるかでしかないと思ってるんだよね。

 

合理的ではないと言われがちなんだけど、そもそも合理性って感情を犠牲にしてまで行うべきものなのかなとも思うんだけどこれも主観でしかない。