生きている事と死んでいる事の違い
私は「生きている事」と「死んでいる事」の違いをうまく説明できない。
生きている事を正しいと見なすのは人間が人間に対してだけであって、人間は他の生物の死骸や腐敗も糧にして生きている。
人間の主観で勝手に害虫害獣と定義して「害は殺していい」と言って喜んで殺す。
食べる為ではなくても自分が生きる為に殺す。もしくは単純に不快だから殺す。
けれども不快だからという理由で人間を殺す事は許されない。
恐らくそれは単純に同種だからなんだと思う。
人は人間という種を存続させようとしているのだろう。
だからこそ多くの人は、私の様に「なぜ人間を存続させる必要があるのか」という素朴な疑問を呈する者を拒む。
その疑問は受け入れられないからだ。
「人間は人間を存続させるために生きている」ただそれだけなのに、そこに疑問符を挟むことは人間という種の存続を揺るがす事に繋がりかねない。
質問は人間の思考を混乱させる。
考えなくても良い事を考えようとする質問は規制される。
だから私は異端者として扱われ、否定され非難され、考えを改める様に促されるのだ。
なぜ人は生きることに固執し、固執していない人間を非難するのだろう。
私の細胞は生きている間だけ私であって、死んだ後は分解されて宇宙に散る。
その場合はそこ(生きているか死んでいるか)の違いに意味はないしましてや幸も不幸も優劣も善悪もない。
私が死んだ後消滅するのは私の個人的な意思だけであって、私を構成しているたんぱく質などの物質は等しく地に還る。そしてそれは他の生命の糧になり循環していく。
私の細胞は宇宙の始まりと共にあり、宇宙の終わりまで在り続ける。
「個」の「意識」に固執する人には私の生死観が受け入れ難いものらしく、よく強烈に否定、批難、議論という形をとった圧を受けることがある。
それがその人の個性なのだろう。それはそれでいいと思う。
良いとは思うけど私を否定しないで欲しいとも思う。
私が私でいる以上、私にも感情という身体反応がある。
私はこの生命としての根源的な身体反応を否定されるのがとても辛い。
しかし外部からの否定は私が私であることを捨てるまで繰り返され続ける。
だから私はその場から逃げる。
私は相手と違って、相手を否定するつもりも闘うつもりもないからだ。
そうそう、そしてこれ(生きている事と死んでいる事の違いがよくわからない)だけを切り取って勝手に判断して「真面目に生きてないから」とか「命を粗末にしてるから」とか「自分を大切にしていないから」とか説教してくる人もいるんだけど、どうしてそこまで短絡的になれるんだとちょっと呆れる…。
それもまた個性か…。