否定は誰にでも出来るし何だって否定できる
私は否定されるのが嫌いです。
そして、
「私は否定されるのが嫌い」という私の意思を否定してくる人も大嫌いです。
何かの議論があってなら別として、純粋な個人的感想として発した「否定されるの好きじゃないんですよね」っていうシンプルな発言でさえ否定してくる人いますからね…。
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私は恥をかくのが苦手です。好きじゃない。
そして寒いお笑いというか、お笑いですべるという状況も苦手です。
相手が滑った時
自分がどういう反応をしたら良いのか、
相手が可哀想になったり
憐れんでる自分に罪悪感を抱いたり、
笑えない内容に意味を見出そうとしたり
悩んだり落ち込んだり
その後の空気もギクシャクするからとにかく苦手です。
勿論自分がすべった時も物凄く苦手です。
恥ずかしいのは勿論だけど、相手に申し訳ないし
相手が戸惑ってるの見るのも辛いしその場を
取り繕うのも恥の上塗りみたいだし
無理に笑ってくれるのも見え見えでそれもまた
気を遣わせて申し訳なくなります。
だからまぁ、なるべくウケを狙いに行かない、
面白いと思った話も、「ウケる話」ではなく「おかしなことがあってさ」みたいなスタンスで話す、などの工夫をしてダメージを減らす様に務めています。
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っていうような話をするとですね。
「どうして恥をかいちゃダメなの?」
「なんで相手に申し訳ないって事になるの?」
「自意識過剰じゃない?」
「恥をかくかどうかは実際にそうなってみないとわからないじゃない。どうしてやる前から恥をかくって決めてるの?」
「恥をかいてからが本番!」
等と、徹底的に否定されます。
そしてその否定は私が考えを改めるまで続きます。
否定をする人たちは、常に自分が正しく、その「正しい自分」と違う意見を持っている相手(私)を悪または「間違いに気づいていない不幸な人」と見なしているので基本的に「話し合い」を求めていません。
問題を添削する教師と生徒の様に、教師が「間違いだから」と言えば全て間違いで、そこに生徒の意見など存在する必要が無いのです。
けれども、そもそも私にとって「否定してくる人」は教師ではない。
教えを請いているわけでもないし、
自分を変えたいとも思っていない。
私は私の考えで生きているし、
私の意見は私が変えたいと思った時にいつでも変えられる事を知っている。
知っているのに私が私の考えを捨てないのは
私が私の考えを好いているからであって
それを否定される事はつまり、私の「好き」を否定する事に他ならないのです。
そもそも否定もアドヴァイスも求めていない、
私は何も不足していないし
何も問題ないと伝えると、
否定したがる人はそれすらも否定し、
私の事を成長を求めない怠惰な人だとか、
偏った考え方に固執する頑固者だとか、
頭がおかしい可哀想な人だと言って自分を正当化します。
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そして恐ろしい事に、
否定する人はどんな事にも否定します。
自分が言った事さえも。
実際に言われた事がある例として、
私「私は今の自分を欠陥品だと思っていない。不足は何もない。」
否定者「(俺の意見を聞かないなんて)あなたは成長する気がない堕落者だ」
私「学びを深める努力はしている。それは有益なものだ。私は自分で成長する事が出来る」
否定者「成長に何の意味がある?成長がイコール正しい、不可欠という考えがそもそもおかしい」
私「は・・・?」
シェイクスピアではないですが、つまり否定者は否定がしたくて否定するのであって、自分の発する言葉に責任をもって話しているわけではないのです。
自分が求めている状態(服従や屈服、敗北宣言や崇拝。または承認欲求が満たされる状態)になるまで相手を否定するだけで、こちらと意見を交わすつもりはそもそも無く、否定者の心は極めて自己中心的です。
けれども、心優しい多くの人は、否定者を『理解者』と捉える傾向にあります。
気にかけて、間違いを正そうと苦心してくれているのだと。
相手の言葉に注意を払うと、本心が透けて見えます。
こういう時、所謂「気にしすぎる性格」というのはハイエナを避けられる優秀なスキルにもなるし、気を病むきっかけになるデメリットにもなります。
だから私は最近やっと、頑張って、
否定者の事を
この人は単にこういう人なんだな。
私はこの人の理解を得たいとも思わないし
この人に否定されてもどうでもいいや。
と思えるようになりました。
そうすると議論から早く抜けられるようになりました。
(大抵、心の底から見下したような蔑んだ視線と超絶上から目線の捨て台詞吐かれますけどね…)
否定とツッコミは、お互いの信頼と愛情がないとやったらダメな奴ですよ。お互いのですよ!否定する側が勝手に「愛情込めて」とか言ってもダメな奴ですからね(笑)