乗り越えられない試練はない。エリエリラマサバクタニ
神は乗り越えれられない試練は与えない。
目の前の試練は必ず乗り越えられる。
・・・という言葉をよく耳にします。
確かにこれは真実です。
しかし、それを聞いて
「乗り越えられない試練は神が与えたわけじゃないから無理しなくていいんでしょ」
という事を言っている人がいました。
いいえ、
そうではありません。
乗り越えたイエスの末路
ナザレのイエスを思い出して下さい。
彼は処刑される際、エリエリラマサバクタニと神に訴えてしまうほど追い詰められました。
けれども、最後には「叶えられた!」と叫び絶命します。
そう。
彼は、
乗り越えて、
絶命したのです。
なぜイエスは死んだのか。
イエスに与えられた試練は確かに乗り越えられる試練でした。
そしてその通りイエスは確かに乗り越えたのです。
では、なぜイエスは死んだのか。
乗り越えたのに助からなかったのはなぜか。
それは、
乗り越えるという言葉の受け取り方の違いにあります。
神にとって重要なのは、どのような困難であれ信仰を貫き通す意志であり、命の有無は問題では無いのです。
なぜなら、神は人を生き返らせることができるから。
命を軽んじているわけではありません。
人間にとって、生命は一度失われると取り戻せない貴重なものですが、神にとってはそうではないというだけの事なのです。
ですから、試練を乗り越えた後、または乗り越える途中で命を落とす事も、神にとっては大した問題では無いのです。重要なのは命ではなく信仰なのですから。
実際に、信仰を貫き通したからこそ、イエスは3日後に復活されたのです。
試練は自分で乗り越えるもの
そして、試練に立ち向かう事になった人間に対して、神が助け手を与える事もありません。
なぜなら、乗り越えることそれ自体が人間にとって神への信仰を示すとても良い機会だからです。
気が狂いそうなほどの絶望的な状況こそ、神への真の信仰心を示すまたとないチャンス。せっかくのチャンスを神がみすみす奪い去る事は、言い換えれば神が人間から喜びを奪ってしまう様なものです。
試練は誰が齎すのか
「神が与えたもうた試練」という言い方をされる事がありますが、これは言葉の通りに取るものではありません。確かに世界で起こる全ての事を神は把握しておられますが、人間を苦しめたり痛めつけたり悲しませたりするためにわざと神が災いや困難を引き起こす事は今の現代ではありません。
勿論天災も神は把握しておられます。
しかし天災は地球の胎動そのものであり、人間の為にも止める事はしないのです。
本来完全体の人間であればそれを回避する事も可能であった筈なので。
では、試練はなぜ起こるのか。
それは勿論、人間が起こすのです。
神は現在、人間の自由意思を許しておられます。
ですので、私利私欲を貪り「信仰を貫く神の子羊たち」を食い物にしようとする人間たちの自由意思も許しておられるのです。
神は愛に溢れた存在
人間からは神からの助け手が見える事はなくても、神は薄情な存在ではありません。
寧ろ、愛する人間が信仰を貫くために辛い試練に逢う時の心境を、とてもよく理解してくださっています。
だからこそ、その上で尚信仰心を失うことなく貫き通し続けた者に対して惜しみない愛を示されるのです。
まとめ
乗り越えられない試練はないという言葉は、生き残る事や死ぬ事、成功するか失敗するかという事ではありません。
「すべての試練において信仰心を示し続ける事は可能である」という事であり、寧ろ人間の方に乗り越えることを求めておいでなのです。