面白いものはメンドクサイの先にある
探求の先にあるもの
私は体力がなく疲れやすく、元からの性格も相まって物事に深くのめり込まず広く浅く付き合って行く人生を送っている。
けれども、長くこの人生を送ってきて、やはり私の人生は薄っぺらくて退屈で、輝きのないものであると再認識するときがあり、それはとても悲しい事だとしみじみ思う。
出来事の表面をなぞって、面白いものと出会う。
面白いものを探求すると更に面白さは増す。
しかし、
ある時、探求が行き過ぎると、もしくは探求の幅が広がりすぎると、自分の手には負えなくなる時がある。
才能であればスランプ、技術であれば限界値、人間関係であれば相互関係、どんなものにも今まで通り面白いだけじゃ先に進めなくなる場面に出くわす。
でも、そこを乗り越えるとまた「面白い」が出てくる。
それは今まで見てきたものととてもよく似ているが、何かが違くて、
そして今まで見えていたものもまた、違った景色に見えてくる。
それがまた面白い。
でも、私にとってそれは文字通り「命がけ」だった。
体力の、精神の全てをそこに集中して初めて突破できる場所であった。
(今思えばそれもまた私の性格の未熟さから来るものであったのかもしれないが。)
何度かそんな事を繰り返し、私はすっかり疲れ果ててしまった。
以降は薄く浅く表面を舐めて、人生を楽しんでいるフリをしている。
実際には楽しんでいるのだが、そこには苦難も苦痛も伴っていない。
今の私は、過去の惰性で生きている様なものだ。
無気力は取り払えるか
人生がつまらない人に対して、「心から本気で何かに取り組んだ事がないからだ」と言う人がいる。
恐らくそれは正しいと思う。ある一つの見方としては。
けれどもそれは、簡単な事では無い。
文字通り、心血を注ぎ、命を削り、寝る間も惜しんで取り組んで、更に言うならそれを「ちゃんと乗り越えた事」がなければならないし、それははっきり言って出来ない人もいるのが現実だろう。それを、やらないのが悪いような風潮にするのは少々気の毒な気もする。
ただ、事実として、メンドクサイ事を乗り越えた先に見える面白さは、あくまでも(他者の協力を得たとしても)自分の力で乗り越えた時に得られるものであって、他人に与えられて得る事は出来ないのだ。
だから無気力無関心のものが世を恨み嘆いても、周囲は励ます事しか出来ない。
どうにかするのは自分自身でしかないのだ。