愛された記憶のない人はまともに他人を愛せない
昔、会社の人に
「自分を愛せなくてどうやって他人を愛するんだよ」
と説教された事がありました。
その人の事は人間として大好きでしたが、根本的な何かが違うのは肌で感じていました。
その人は頭が良くて順風満帆の人生で自分は違くてとかそういう次元の話ではなく、見えているすべてが違うという感じ。だからこそ話していて面白かったという面もありました。
それで、このセリフ、言われた当時は心の中で
「だから私は誰にも愛されないのだ。自分を愛せない人間は他人を愛せないのなら、誰も愛さない人間が愛される訳がないから」
と思っていました。恐らく理解はされないだろうと、その時は口にしませんでしたが。
しかし、年月が経ち今思う事、彼と私の何がそこまで違っていたのか。
それは自己愛に関わる部分なのですが、自分を愛せるかではなく
自分は愛されているか
または
過去に一度でも、自分は心から愛されていたか
という部分の違いに他ならないと気づきました。
自己愛を持てる人は、どうして自分を愛せるのか。
それは、愛された記憶があるからです。
過去の恋愛、幼少の記憶、恋人でも両親でも祖父母でも兄弟でも…
未熟な存在の自分でもいいと愛してくれていたことを(恐らく成人する前に)経験する事は、自己愛の形成に大きく影響します。
そして自己愛が正しく形成されると、それは息を吸うように当然の事として認識されます。
『自分はたとえ完璧な人間でなくても、愛されるだけの価値がある。
だから今のパートナーと別れても自分はまた愛する誰かと出会えるだろう。
そして同時に、自分もパートナーの未熟な部分を愛する事が出来るだろう。
自分が愛されているのと同じ理由で。』
でもね。
それは愛されている者の視点であって、愛された記憶が皆無の人間には無理な話なんだよ。
「まずは自分から」が無理なワケ
「愛されたいのならまず自分から愛しなさい」と言われますが、そもそもそれが出来ないんですよ。
だって、愛された事のない人は、愛し方を知らないんですから。
どうする事が愛なのか知らない。
だから何もかもに怯え、何が起きても自分を責める。
そんな人が他人を愛せる筈が無い。
だから、愛されるのが先なんです。
駄目で、未熟で、失敗だらけで欠点だらけの自分を愛してくれる人がいて初めて、ありのままの自分で他人を愛する事が出来るんです。
親や家族、幼少の時の周囲から愛情を込めて接してもらった記憶を強く持っていれば、未熟な自分の愛し方でも大丈夫だと確信をもって相手に接する事が出来る。
強い自信を持った愛し方は、それを喜びとする人を近づけ、そのやり方を求めない人を遠ざける。それは正しい相性の人と巡り合うために大切な事。
自分を愛さなければ他人を愛せない。
でもその前に、他人に愛されなければ自分を愛せないんです。
これは成人してから習得した人じゃないと実感できないんでしょうね。
子供の頃にたっぷり愛情注がれてるのを実感できている人は、愛されるのが当たり前だからなぁ・・・。