積極的に死にたいわけではないが。
『生きられない』=『死にたい』わけではないのです。
どちらかというと
『死ぬしかない』
に近いかもしれない。
生きている人間に対して死にたいと相談すると必ず生きろと答えが返ってくる。
それは当然です。相手は生きていて、それが相手の正義なのだから。
『死んでもいい』と言ってしまっては自分の正義を否定することになってしまう。
だから生きている人に死にたいと相談するのは無意味なのです。
けれども、私が生きていることで迷惑や負担がかかる相手にはどうしたら良いのかは誰も教えてくれない。
私は文明時代に生れているので、電気ガス水道がないと困るし食べ物だって自分で山に入って採ってくることもできない。お金を払って誰かが取ってきてくれたものを食べているのだから、払うお金がないなら誰かに負担をかけている。
誰に対しても支払うものが何一つなくなった時、私が生きる方法はといえば、今まで通り精神異常になりながらも生きること。異常をきたした精神は肉体をも破壊して、それでも死ぬまで痛みを抱えながら生きること。
それが『死にたい人』に対する生きている人からの答え。
『生きろ』と言う言葉はつまり『苦しみ続けろ』ということに他ならない。
私の激痛をまるで無視するのはつまり、私を機械や虫と同等に扱っているのだ。
他人にとって私の痛みなどどうでもいいこと。
それより世界から生産と消費をする物体が消えることの方が問題で、自分の周りから自分を知るものが消えることの方が問題で、自分が嫌な気分になりたくないから死を否定する。
要は、歯車が消えては困るが、歯車が愚痴愚痴言ってんじゃねぇよって事。
私がこの世界を楽しいと思える性格であったなら、どんなに苦しくても死にたいなどと思うこともなく死ぬまで楽しく生きていただろう。
どうして私はこんなにも生きるのが辛いのか。
他人がいないと生きられないくせに他人が怖い。
体力がない。頭が悪い。持病持ち。睡眠障害。神経衰弱。
今となっては決定的な理由もよくわからない。
けれども私は誰かの負担になってまで生きていたいとは思わない。
だから生きられないし生きたくない。
今はそれが一番だ。
『傷つく方が悪い』
話すのが嫌いなわけじゃないけど、会話をするととても疲れる。
話している時には気づけなくても、後になってあれは嘲笑されていたのだと気づくことも多い。
反論もできないなら最後まで気づかないままなら幸せだろうに、気づいて傷つく癖に相手と戦うことすらできない。それを癒すには忘れる以外にないのに、悪い思い出は何十年たっても思考にこびりついたまま忘れることができず、会話への恐怖はどんどん蓄積されて減ることはない。
何を間違えた?
私は、どうしてこんなに生きることがつらいのか。
他人から与えられる怒りや暴言、威圧や嘲笑、私が恐れるこれらすべては曰く気にしすぎるからいけないらしい。つまり
気にする私が悪い
ということ。暴言吐く人の思考をこちらの都合で変えることはできないからね。
それってつまり、
ムカついたら怒鳴って良い。
腹が立ったら暴言吐いて良い。
相手を威圧して服従させるのが正しい。
馬鹿にできそうな相手は嘲笑の対象にして構わない。
何を言うのも自由。
だってそれを気にする相手が悪いんだから。
ということ?だよね?
我慢はいらない。
自分の欲望に正直に。
要求しろ。
自分は正しいと押し通せ。
正義はもとからあるわけじゃない。
押し通されて勝ち残ったものが正義なのだ。
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私は生まれてくる宇宙を間違えたんだと思う。
それか、虐げられるためだけに生まれてきたのかのどちらかだろう。
私はこの世界の「正しさ」を否定しない。
それらがあったから今があるのだから。
けれどもこの正しさの世界で私は平常心を保って生きることができない。
それはつまり私がこの世界の正しさから外れてしまっているということ。
生きるのがしんどいのは当たり前だ。
世界の秩序から外れてしまったのだから。