小さな幸せを感じる日々の日記

人生辛かったり楽しかったり悩んだり寝たり起きたり。

繊細さなどいらない

『自分の正義は絶対で、それに反論する人はねじ伏せれば良い。

寧ろ論破してあげることが相手に正しい正義を気づかせてあげられる感謝されてもいいくらいの行動なのだから自分の正義を相手に理解させるのはとても大切。』

 

友人でも知人でもない、けれどもどうしても会話をしなければならない相手の中に、こういう考え方を持つ人がかなりの確率で存在します。

ただ、本人は無意識です。無意識だからこその絶対正義でもあるのかもしれない。それは余計にたちが悪い。

 

人間は自分が正しいと思っていないと生きていけない。

それ自体は別に良いと思うのですが、私は他人に正義感というか価値観を強制的に押し付けられるのが大嫌いで、しかも相手は絶対正義のためこちらの意見を聞く気はさらさらないため対話が成り立たないのは苦痛でしかない。

 

要は、服従以外の選択肢はない。

 

『正義とは何か?』

などという倫理の勉強みたいな疑問符は、多くの人は普段気にしない。

気にしないまま自分の正義を振りかざすのだ。

 

『自分は正しい。だから正しい。

自分と意見が違う。だからあいつは間違い。』

 

それはそれで構わない。それはその人個人の信念だから。

けれどもそれが『お前は間違っているから俺に従え。お前の考えは許されない』という『侵略』になると話は変わってしまって、こちらは抵抗せざるを得ない。

私は相手の考えを否定はしないが、自分の考えを否定されたいわけでは断じてないからだ。

 

『自分は正しい。だからそれを声高に主張してもそれは正しい』

私もそうなりたかった。

そうすれば、もう少し生きやすい人生だったかもしれない。

 

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こういう話をすると「そうなればいいじゃん」「なれないのはあなたの意思の弱さ」と攻撃してくる人が必ず出てくるのですが、私の求める鈍感さって、「生まれつきの鈍感さ」であって、「気にしないように生きよう」とか「なるべく考えないようにしよう」とかいう次元の話ではないのです。というかむしろ気にしないとかは当たり前に既にやってるっての。もしかして馬鹿にされてるのかな。

 

会話は意見発表会

私は会話が苦手です。

 

人間が作ったもので嫌いなものは少ないけれど、直接人と会話することだけはどうしても苦手です。

 

思うに、私にとって会話は、相手が意見を持ちそれについて私が「賛成、反対、中立」のどれに該当するかという情報を求めているものなのですが、基本的に相手は賛成を求めて話しかけてくるので賛成し難い時の心労が苦手なのかもしれません。

 

要は、「一見すると意見を求められているテイをとって話しかけてきているが、実際は同調以外求められていない」状態が好きではないということですね。

かといって、相手と対立するほど強い信念は持ち合わせておらず(相手の意見を変えることに関心はない)、むしろこちらを攻撃してこなければ相手がどういう信念であってもどうでもいいので強く持論を展開して大議論に発展させようという意思もない。

 

「聞き流せばいい」「ちゃんと反論すればいい」「受け入れてあげればいい話」などご意見はあるでしょうが、聞き流せば「賛成された」「ちゃんと聞いてない」と言われ、反論すれば議論になり、受け入れられないものを受け入れれば私の存在は必要なくなるのですがそれは。

 

私の好きな会話は寧ろ、音楽のようなものだったのかもしれません。

相手に不快感を与えず言いたいことを言っているようで相手に同調を求めない。

そして何より、聞きたくない人に強制しない。それが私にとって心地よい会話なのかもしれません。

 

 

でもそれって動物的に言うと一番無駄な会話ですよね。

会話は情報伝達システムなのだから、重要な情報が入っている会話の方が大切であって、中身のない(と感じられる)会話はむしろ雑音でしかないのだから。

議論が好きで常に討論してる人(政治家や経営者や科学者など?)の存在は大いに人類発展に貢献していますものね。

 

そういう意味でも、私は人間として生きるに値しないのだなぁと感じてしまうのです。